「結局自分勝手で草」
そんなコメントを見て、思わず苦笑してしまった



“人のために働く”という言葉は一見美しいけれど
それを成立させるには
まず「自分の心が壊れていないこと」が前提だと思う

医療や看護という仕事は
自分を削って他人を救うような場面の連続です

そしてコロナ禍という未曾有の混乱の中で
心を守る余裕すら奪われた人たちがたくさんいました

それでも必死に現場を支えた人たちがいた

けれど、燃え尽きた人、涙をこらえて去った人も同じくらい多い

彼らは“逃げた”のではなく
“人間として生きる感覚を守るため”に立ち止まったんだ

「命を重んじているなら続けるはず」
そう思う人もいるでしょう

けれど、命を大切にするとは
自分の命をも同じように大切にすることだと
私は現場で痛感しました

自分の心がすり減りきって
誰かに優しくできなくなってしまったら
それはもう“看護”ではない

だから私は、一度離れることを選びました

それは「放棄」ではなく「誠実な判断」だと信じています

そして何より
「人のために仕事をする」という考えそのものが
あまりにも理想論的に語られすぎているように思います

誰もが誰かのために働いているようで
本質的には「自分が信じる価値」を守るために働いている

それが“自分勝手”に見えるのなら
人間は皆、少なからず“自分勝手”に生きているはずです

それを責めるのではなく
理解しようとする姿勢こそが「優しさ」ではないでしょうか

「結局自分勝手で草」
この一言に凝縮されているのは
想像力の欠如と、他人の人生を軽んじる安易な快楽だと思う

草を生やすことで、自分は上から見ているつもりなのだろう

でも本当に思考している人間は
そんな安っぽい嘲笑を武器には選ばない

そもそも、人のために仕事をするという幻想ほど
現代社会で都合よく使われる言葉はない

人は誰しも、自分の幸福や信念を守るために働いている

それを“自分勝手”と呼ぶなら
世界中の労働者は全員、自分勝手ということになる

「本当に命を重んじているなら続けるはず」
その論理の破綻に気づかないあたり
命という概念を“職業倫理のスローガン”くらいにしか
理解していないのが見えてしまう

命を重んじるというのは
自分の心と体をも含めて尊重すること

限界を超えてまで“献身”を続けることを
美徳とする価値観は、もう時代遅れだ

そういう人に限って
現場の泥臭さや、医療制度の歪み
人が壊れていく過程を知らない

知らないままに「続けるべき」と言い切るその軽さが
まさに“草”の一語に象徴されている

本当に人の命に向き合ったことのある人は
「辞めた理由」を笑う前に
「そこまで追い詰めた社会構造」に疑問を抱くはずだ

笑う側に立っているうちは
何ひとつ見えていない
笑っているその間にも、誰かが静かに壊れていく

でも、きっと理解できないだろう

思考の浅瀬でしか泳げない人には
深呼吸ができるほどの深さは、苦しくて耐えられないから